光市の事件で、元少年の被告が死刑判決を受けました。あまりに当然過ぎる判決だと思うし、世間の7〜8割くらいの人も同じように感じていることでしょう。なので、判決そのものの妥当性について述べることはしません。
当判決は、「厳罰化へ道を開いた。大変だ」みたいな言われ方もしています。一方で、「"厳罰化"ぢゃない、"適正化"だ」との意見もあります。まぁ、"厳罰化"なのか"適正化"なのか論ずるのは、言葉の遊びみたいなもんで、それほど有意義とは思いません。どちらも、「刑の重さはかくあるべし」という絶対的基準(某A新聞曰「死刑へのハードル」)を脳内に設けて、それに沿って意見を言っているだけだからです。
それよりも、ここでは基本に戻って、「永山基準」なるものについて考えてみましょう。勿論、私は法律についてド素人ですし、「永山基準」なんて言葉を知ったのも最近です。ただ、色々と調べて、それについて考えることはできるので、それを書こうと思うわけです。専門知識は踏まえておりませんし、ソースは全部ネットなので、その点、御了承ください。
「永山基準」なるものは、次の九項目からなるそうです。
永山則夫連続射殺事件 この事件以降殺人事件において死刑判決を宣告する際は、永山判決の死刑適用基準の判例を参考にしている場合が多く、永山基準と呼ばれる。1983年に第1次上告審判決では基準として以下の9項目を提示、そのそれぞれを総合的に考察したとき、刑事責任が極めて重大で、罪と罰の均衡や犯罪予防の観点からもやむを得ない場合に許されるとした。
1.犯罪の性質 2.犯行の動機 3.犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性 4.結果の重大性、特に殺害された被害者の数 5.遺族の被害感情 6.社会的影響 7.犯人の年齢 8.前科 9.犯行後の情状
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で、永山裁判以降、これらに従って、殺人事件の判決が下されるようになるわけです。ここで注意したいのは、永山基準そのものには、この九項目の間に軽重はつける文言はないこと。1〜9を総合的に考えて、量刑を決めなさい、ということだろうと、私は解釈しています。
そして、永山裁判から下ること25年、光市の事件の最高裁判決で、7番の「犯人の年齢」について、「死刑を回避する決定的な事情とはいえない」と述べ、「被告人の罪責は誠に重大であり、特に酌量すべき事情がない限り、死刑の選択をするほかないものといわざるを得ない」と高裁に差し戻しました。これは、永山基準が揺らいだことを意味するのでしょうか?
そうではないでしょう。
実際、差し戻されたほうの高裁でも、次のように述べています。
【光母子殺害・判決要旨(9)完】量刑「極刑はやむを得ないというほかない」 (ウ)被告人は犯行当時18歳と30日の少年であった。少年法51条は犯行時18歳未満の少年の行為については死刑を科さないものとしており、被告人が犯行時18歳になって間もない少年であったことは量刑上十分に考慮すべきである。また、被告人は高校を卒業しており、知的能力には問題がないものの、精神的成熟度は低い。
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ちゃんと、「被告人が犯行時18歳になって間もない少年であったことは量刑上十分に考慮すべき」といっています。
でも、その後の文章で、
たしかに、被告人の人格や精神の未熟が本件各犯行の背景にあることは否定し難い。しかし、各犯行の罪質、動機、態様にかんがみると、これらの点は量刑上考慮すべき事情ではあるものの、死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情であるとまではいえない。
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と述べ、その他、様々な考察を重ねた後、最終的に「以上の次第であるから、被告人を無期懲役に処した第1審判決の量刑は、死刑を選択しなかった点において軽過ぎるといわざるを得ない」と結論付けています。
つまり、「犯人の年齢」は考慮の対象内ではあるものの、その他の条件を覆すには至らなかった。だから死刑しかないのだ、というストーリーです。
以上の流れは、以下のように解釈すべきではないか、と思います。
これまでは、「永山基準」なる慣例のうち、「犯人の年齢」が異常に肥大化してしまっていた。正確に言えば、「犯人の年齢が未成年である場合」の力が一人歩きし、ほとんど絶対的な基準になってしまい、これを覆すには、よほどのことがないと無理になってしまっていた。よって未成年の極悪犯は、「無期懲役」という量刑が必然的に決まってしまい、あとは、「死刑を回避する理由」を後付けでひねくりだしていた。永山基準のうち、「犯人の年齢」と「結果の重大性、特に殺害された被害者の数」だけに重きをおき、あとの項目は、そこから逆算して適当なことを言っていた。
差し戻し前の地裁判決の一部です。
山口・光母子殺害事件判決要旨 そして、その犯行態様は、極めて冷酷かつ残忍であり、非人間的行為であるといわざるを得ない。また、被告人は犯行後その発覚を遅らせるために、遺体を隠匿したり、罪証隠滅のため自己の指紋の付いた物品を投棄したり、窃取した地域振興券を使用する等犯行後の情状も極めて悪い。
<中略。犯人の悪材料が続く>
3 しかし、83年7月8日の最高裁第2小法廷判決が示したところに従って本件を検討すると、殺害は事前に周到に計画されたものでなく、被告には前科がなく犯罪的傾向が顕著であるとはいえない。当時18歳と30日の少年であり、内面が未熟で発育途上にある。被告の実母が中学時代に自殺したなど、家庭環境が不遇で成育環境に同情すべきものがあり、それが本件の犯行に至るような性格、行動傾向の形成に影響した面が否定できない。加えて、捜査段階で一貫して犯行を認めており、公判廷で示した遺族に対する謝罪の言葉は必ずしも十分とは言いがたいが、被告人質問や最終陳述の際に被害者らに思いを致し、涙を浮かべた様子からすると、一応の反省の情の表れと評価できる。被告にはなお人間性の一端が残っており、矯正教育による改善更生の可能性がないとは言いがたい。
4 以上によれば、本件はまことに重大悪質な事案ではあるが、罪刑の均衡、一般予防の見地からも極刑がやむを得ないとまではいえず、被告には無期懲役をもって、矯正による罪の償いをさせるのが相当である。
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あそこまで、犯人を非難し、「遺族に対する謝罪の言葉は必ずしも十分とは言いがたい」とも述べておきながら、「一応の反省の情の表れと評価できる。」と、なってしまう。「一応」ですよ、「一応」。こんな投げやりな副詞をつけて、「反省の情の表れ」と評価されては、被害者遺族もたまらんでしょう。死刑回避のための屁理屈がまかり通っていたわけです。
このことは、光市事件の遺族も述べています。
これは、あまりにも不健全な状態です。先にも述べましたが、永山基準のどこにも「犯人の年齢は他の項目を差し置いても考慮すべき事柄である」なんて書いていません。永山基準は九項目全てを考慮して総合的に判決を下すことを求めているのに、これまでの「永山基準」の運用は、特定の一項目がほとんど絶対的な基準になってしまっている場合があった。
そういうゆがんだ運用を改めて、基準の九項目を、もう少しフラットに扱おう。事件を総合的に眺めて判決を決めよう、というのが、先の光市の事件の最高裁判決だったと、私は考えます。だから、この判決により、永山基準は揺らいだのではなく、より一層、永山基準が普遍的になったと解釈するべきです。
現実問題としては、今後、少年にも重刑が課されることが多くなるのは否めません。しかし、このことは、刑の重さが一律に底上げされることを意味するわけではありません。「年齢が若い」ことによって、ほとんど一律に減刑されていたものが、以降は、他の項目も加味されるようになり、その結果、重くなったり軽くなったりするようになる、ということです。
考えてみれば、「永山基準」というのは「法律」には書いていない「運用」です。そして、「未成年優遇」は、運用であるはずの「永山基準」の、「そのまた運用」だったわけです。「二重の運用」の下に置かれていた「未成年優遇」が、これほどまでに絶対視されていたことは、何とも不思議なことだった、と言わざるを得ません。
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2008年04月23日(水) | 22:24:47 | トラックバック(0) | 時事問題
しばらく放置状態にあったblogですが、また再開することにした。これもいつまで続くかどうかは不明ではありますが、よろしくお願いします。
◇ 言うまでもなく、再開する直接的な理由は、チベット問題である。4月26日(正確にはその前夜)には長野へ行ってこようと思う(現在、抗議用のプレートを作成中)。以前は、中国のことを誉めたこともあったが、この頃の行動は目に余るものがある。
もっとも、それ以外にも、日常、「こんなことを考えた」というような事柄は数多い。忙しかったり、気乗りがしなかったりで、そのままになってしまっているが、「書き記しておきたい」という欲求が完全に消えてしまったわけではないのである。
◇ チベット問題は、以前から知らなかったわけではなかった。保守系言論のホームページをやっていたこともあって、チベットには同情的ではあった。しかし、そのことが心の奥底に隠れてしまっており、あまり表面的な意見として出さなかったことは反省せねばならない。
[引用開始]
石原都知事、善光寺の聖火辞退「仏教徒として立派な姿勢」(産經)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080418-00000953-san-pol
−−抗議活動自体が五輪とからめられているが
「こういうきっかけをとらえなかったら、チベットの問題は世界的な注目は浴びなかったんじゃないですか。そらね、こういう機会をあえてとらえてああいう運動を展開することの善しあしは別にして、しかし、やっと聖火リレーのおかげで、あの混乱のおかげでチベットの窮状がわかってきたわけでしょ。既存の事実として、鉄道が敷かれて、民族浄化かなんか知らんけど、とにかくチベット人そのものの血を希薄にするみたいな運動が実際に行われているわけだから」
−−抗議活動自体は致し方ない部分もある
「そう思いますね、私、チベット人の立場になってみれば」
「この問題、本当に誰も関心持たなかったね。アメリカ人なら俳優のリチャード・ギアだけでね。あの人も仏教徒だそうだけども。それに関心なしにね、宗教こえてもね、一つの独自の文化、長い伝統を持った文化、民族ってのが大きな政治の力でね、混交して淘汰(とうた)されていくってのは、本当に私にとってみたら、見るにしのびない話と思いますね」
[引用終了]
これは、その通りだと思う。私を含め、今、批判している人達も、この騒動がなければ、ここまでの盛上がりは見せなかったはずだ。このタイミングで、突如として抗議活動が開始されたのは、ダライ氏の意図によるのかは別にして、一般のチベット僧がオリンピックを見据えてのことだったのは確かであろう。早すぎれば、オリンピック本番までに熱が冷めてしまうし、遅すぎれば、オリンピックに対しインパクトを与えることもできなくなる。チベット民族蜂起の記念日も相俟って、タイミングの絶妙さはすごいものがあると思う。
◇ 騒動以後、youtubeにも色々と関連する動画があがっているが、中でも参考になったのは、次のものだ。
声明文の発表後のチベット問題と日中外交を青山氏が語る
http://jp.youtube.com/watch?v=0SkVQSewvjY
http://jp.youtube.com/watch?v=7LavkLzQZo4
http://jp.youtube.com/watch?v=F3_EuzN0yeI
当然のことながら、チベット問題は、オリンピックでアピールしたくらいでは、解決するのは無理だ。中国共産党のアイデンティティは、もはや毛沢東でもなく共産主義でもない。
あの広大な領土を、一党独裁で統治すること。
これだけである。だから、これに反するものは、どんな非人道的なことであろうと、国の評判が悪くなろうと、北京は、断固とした態度を取る。
漢民族の歴史は、外圧からの侵略される歴史といってもよい。漢民族が戦争に強かった時代など、ほんの僅かで、あとは外圧に怯えることがほとんどだった。それは、あの万里の長城が証明している。
中国の領土が広かった時代。それは漢民族の時代ではない。夷荻(いてき)が、漢民族から大陸の支配権を奪い、領土を広げた時代である。
例を挙げよう。
まず、唐。これは漢民族の黄金の時代であるが…。
China map.jpg 現在の華北・華中・華南に加え、西域の一部くらいしか領土が無く、周囲は、夷荻の国に囲まれているのがお分りだろう。北京のあたりは唐の領土の北端であり、万里の長城の向うは、戦闘的なウイグル国家が控えていたことがわかる。
いやがおうでも、唐は、国境警備に力を入れざるを得ない。当時の中国文学には、僻地に飛ばされてつらい・大変だ、みたいなものが結構、残っている。中国版・防人の歌といったところだが、和歌と違い、漢詩は教養がないと作れないので、役人作によるものが主である。
次に、宋。宋期の前半を「北宋」というが…。
宋・遼時代.PNG 西域の領土を、西夏にとられてしまっているな〜。この頃は、周辺の遊牧戦闘国家が力を伸して、独自の文化を主張した時代で、「もう漢字の世話になどならん! われらが西夏文字のすばらしさを見よ!」と、独自の文字を考案なんかをしている。
北には「遼」という、一見、中国風ネーミングの国家があるが、これは漢民族国家ではない。遊牧戦闘国家で、常に宋を脅かしている存在だった。
宋の後半期を「南宋」というが、その頃の領土は…
画像:宋・金時代.PNG 何か、いつの間にか領土が半分になってますが。
実は、一旦、宋は滅びている。遼が、女真族の国家・金に置き換わった後、この金が宋を滅ぼしてしまう。ただ、南方までは金の影響が及ばなかったので、宋が再建され、首都を南に移して、南宋となったのだ。
その後、色々あって、元。これは御存知の通り、漢民族国家ではなく、モンゴル人国家。
Mongol Empire map.gif まあ、中国風に「元」と呼ばれる地域は、上図の紫の部分だけだが、これだけでも、現在の「中華人民共和国+モンゴル国+朝鮮半島」よりも広い領土を誇ってますな。モンゴル帝国全体では、ヨーロッパまで届かんとする勢いだから、すごいものです。
その後、元が弱体化した後、漢民族国家が復興し、「明」となるが…。
Ming-Empire2.jpg 北宋と同じくらいの領域? でも、モンゴル人は完全にいなくなってしまったわけではなく、「北元」として、やはりプレッシャーをかける存在だった。
その後、女真族改め満州族が台頭してきて、明が滅び、「清」となる
大清帝国領域.PNG かつては戦争に強かった満州族であるから、明の時代よりも領土は拡大した。北京よりも北方や、西域(チベットも含む)まで清の領土となった。台湾省が創設されたのもこの時代。つまり、現在の中華人民共和国の国土(自称の分を含む)は、この清の時代の領土に基礎を置いているのである。
そう、台湾問題もチベット問題も、20世紀になってからの問題ではないのだ。中華人民共和国の人達は、清の領土を継承していると思っている。中国人は、「清の領土は全て、漢民族の領土なのだ」という理屈を当然のものと思っている。ここを認識しないと、彼等の思考回路を知ることは不可能である。
もっとも、これまでの説明から分かるように、本来の漢民族の領土は、華北・華中・華南のみ。しかし、満州族の支配により、東北や西域に領土を拡大した。その後、満州族は漢民族に同化。だから、「清の領土=中国の領土」といっても、彼等にとっては全然違和感は無いのであろう。まぁ、なんつーか、本来の日本の国土は、本州以南なのだが、北海道が日本の国土となって以降、完全に日本の一部になってしまったのと似ていますな。
ただ違うところもある。北海道は、全体が日本にほぼ同化してしまったが、清においては、拡がった国土の全てが、漢民族に同化したわけではないことだ。
まず、東北地方。ここは、もともと満州の本拠地であるから、満州族の漢化に伴い、東北は事実上、漢民族の領土として併呑された。これはいい。
しかし、西域は違う。大陸の多数派たる漢民族とも、大陸の支配者たる満州族とも縁の薄い地域だから、彼等とは同化が進んでいない。だから、清が滅亡し、彼等の支配が及ばなくなれば、独立指向が高まるのも当然なわけだ。
しかし、一方で、中華民国も、チベットに対する色気は消えていなかった。「野心」というよりも、「清国継承者」として、「当然の権利」だと考えていたのだと思う。ただ、この時代、戦争があったり、共産党との争いがあったりして、国民党はチベットにまで手が回らなかったんでしょうな。
でも、第二次大戦が終り、共産党が国共内戦で勝利した後は、障害は消滅した。勢いに乗った共産党は、「当然の権利」として、安心してチベットに攻込むのは、あまりにも明らかであった。
まとめよう。
今でこそ、チベット問題は、チベットvs中華人民共和国の問題になっているが、そもそも、この問題は、チベットvs満州族(清)の問題であった。清滅亡後、チベットが独立を回復しても、中華民国は「清の後継国家」として、チベットvs中華民国の問題は残り続けた。そして中華人民共和国になって、チベットに攻めこんだ。
ただ、中国の「チベットは古来からの…」という言分は、嘘である。漢民族としてチベットをモノにしたのは、中華人民共和国が最初である(筈)。満州族まで含めても、清までしかさかのぼれない。モンゴルを含めるなら元まで。しかし、ここが上限である。それでも、中国人にとっては、「清の領土は、全て中国古来の国土」なのであるから、彼等の脳内では矛盾は無い。
チベット問題の紹介ページなどで、第二次大戦後のみを解説しているものがある。が、それだけでは、物事の半分しか見ることができない。なぜ、あそこまで中国人は領土に対して執拗なのかを知るには、第二次大戦後だけを見ているのでは、なかなか分からない。それは、中国人の領土意識は、共産党の覇権的な性質に端を発するものではないからである。中華民国時代から、いやそれ以前の大陸の歴史に根ざす、非常に根の深い問題が横たわっているのである。
「独立を一つ認めると、将棋倒し的に独立されてしまう」とよく言われる。確かにその通り。でもそれは、目の前の予測を述べているだけで、非常に表面的な説明に過ぎない。「独立の将棋倒しが起こるのは何故なのか」、「中国人が、領土の縮小を恐がるのは何故なのか(単純に、経済や面子の問題じゃない)」、「中国では何故あれ程に、一つの中国が宣伝されるのか(この用語を中台問題だけに矮小化してはならない)」などは、歴史をかなり遡らないと説明できない。
また、チベット問題を、単純な領土問題として見た場合、中国側にも「清国の正当な継承者」として、主張できる部分が無いわけではない。だから、チベット問題は、領土問題として見るよりも、人道問題として扱うほうがいいだろう。ダライ氏が「独立ではなく、高度な自治を求めているだけだ」というのも、分かる気がする。そして、共産党による非人道的な行為が改められ、チベット文化が守られ、チベット人が安心して仏教を信仰でき、ダライ氏がチベットに帰ることができ、一般中国人がチベット人の血を薄くしてしまわないような配慮。まずは、その辺りを目指して欲しいが、共産党がアレじゃな…。
2008年04月21日(月) | 21:44:07 | トラックバック(0) | 未分類